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(2009-07-03)
コメント:勝手も矛盾もないまぜにして。

「アンデルセンの『人魚姫』を今日の日本に舞台を移し、キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く」、という企画のもとに制作された(らしい)「崖の上のポニョ」。
(宮崎駿『折り返し点』(岩波書店)より引用)

ハラハラドキドキよりも童話的な安心感が前面に出ている本作。
生き物みたいな波、イマイチ美しくない人魚、悪者のいないお話、……
ファンタジー、っていうほどにふわふわした感じははなくて、どこか落ち着いた、地に足の着いた感じ。
絵本みたいと言えば絵本みたい。
上手く言えませんが、その辺が「今日の日本」という舞台に根付いた“お話”という辺りからの狙いなんでしょうか。





 

 強い強い人魚姫

――ポニョ、自然と文明、男と女、その断層も呑み込んで




宮崎駿のアニメには、「たたかう女の子」が必ず登場します。

『風の谷のナウシカ』のナウシカに始まって、『もののけ姫』のサン、『天空の城ラピュタ』のシータ。
『となりのトトロ』のサツキとメイとか『千と千尋の神隠し』の千尋とか。

たたかう、っていうと語弊があるかもしれないけど、
ただ翻弄されて戸惑うだけじゃなく、ちゃんと自分で考えて自分の手足で動く、
そういう女の子が、宮崎アニメには必ず出てきます。
いいですよね。
魔女に騙されて眠ってりゃいいクジ引ける童話の女の子たちとは違う。
眠り姫然り白雪姫然り。
「いつの日にか王子さまが」?ふざけんなと。

その点他に現代に伝わる「姫もの」(そんな言い方しないけど)と一線を画すものが、「人魚姫」です。
自分が助けた王子様のそばに居たいがために、美しい声を捨て、故郷を捨て、一足ごとにナイフで突き刺されるような、焼けつくような痛みに耐えてまでも両足を手に入れる一人の人魚の話。

童話に登場するお姫様群のなかでは特異な存在である彼女。
お話自体は、結局王子様には選ばれず、海の泡になってきえてしまうという、恐ろしくペシミスティックなお話ですが、彼女の一途さひたむきさ、そして強い意志と行動力って、宮崎アニメに登場する女の子たちと通底するものがあります。
宮崎駿が「童話」や「絵本」をイメージの基礎にしたと言われる『崖の上のポニョ』ですが、「人魚姫」というのは、選ばれるべくして選ばれた題材だったのかもしれません。


さて、宮崎駿作品に関して喧々諤々するにあたってよくテーマとして取り上げられるのは、
「自然と文明」の対立、緊張関係、そんなところじゃないでしょうか。

『風の谷のナウシカ』に始まり、『平成狸合戦ぽんぽこ』、『もののけ姫』などなど、露骨にそれが主題となっているものから、
『天空の城ラピュタ』の蔦や草木に絡まれた要塞やロボットだったり、『となりのトトロ』で、都会から田舎に越してきたらしきサツキとメイだったり、そういうモチーフ的なものまで、
宮崎駿のアニメは「自然/文明」というテーマに支えられていると言っても過言ではない、くらいは言ってもいいんじゃないでしょうか。

そして本作『崖の上のポニョ』は、というと、やはり「自然/文明」を読み取ることは可能なのであります。うん。
でもどこかその対立が中途半端で楽観主義に過ぎるきらいがあるというか、ご都合主義に見えてしまうというか、そのような感想を抱かせるものとなっていることは否めません。

「ポニョ、宗介のことすきーー」で許されていいもんなのか?というか…
強烈で自分勝手で向う見ずなポニョの行動が、安直にボーイ・ミーツ・ガールの範疇に収められようとしているのが、なんとも反感を抱かずにはいられないというか…
「宮崎駿、ちっちゃくまとまっちまったんじゃねーの?」みたいなことちょっと言ってみたくなってしまう感じ。


でも、ぼんやりと今思うのは、
「自然/文明」という問題が矮小化されてされて感じられてしまう原因っていうのは、そういうものが孕む対立やら矛盾やら断層そのものが、ストーリーで取り上げられる以前に、ポニョという小さな女の子の存在そのものに詰め込まれてしまっているからなんじゃないのかな、ということです。

“人魚の子ども”っていう設定って、そもそも人間か否か、男か女か、みたいないろいろな二項対立の未分化の状態に近いんじゃないかと。

自然と文明は共存できるのか?人間とは何か?生命とは?生きるとは如何にあるべきか?
恐らくこれまで宮崎駿が考えて、様々な作品で重ね重ね問われ続けてきたであろうそんな問いは、本作で改めて根本的に問われることはありません。
それは、ポニョという存在が、無言の答えとして提示されているからなんじゃないかと思うのです。

矛盾、未分化、混沌、そういったものをすべてを呑み込んで、ただ強烈に生を全うするポニョ。
それは、さまざまな「?」をそのままにして生きる、という一つの可能性の提示なのです、きっと。

だからこそ、ポニョは、陸の上でも海のなかでもなく、「崖の上」にいるんじゃないでしょうか。
海と、陸の、あくまで間に。

それが宮崎駿の、すべての生命への賛歌であるのか、あらゆる問題への諦観であるのかは、分かりませんが。






(でもたとえば、宗介の母親が作る袋入りのインスタントラーメン(カップ麺ではなく、鍋で煮る必要があるタイプの)が、インスタントだからと言って味気なく、あるいは毒気を持って描かれるのではなく、あくまでおいしそうに(実においしそうに)描かれています。
人間や文明を否定するのではなくて、ありのまま、矛盾をも丸ごと受け止めようとする宮崎駿の姿勢をそこに読み取ろうとすることには、……いささか無理があるでしょうか?)



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