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(2009-02-06)
コメント:帰ってきた「社会派ミステリ」。

(第7回『このミステリーはすごい!』大賞優秀賞受賞作品)

私が、人間味を感じ、感情移入し、好きだと感じられたのは、自殺してしまった「加害」児童だけでした。

こわい、気持ち悪い、かなしい、やるせない…
淡々と関係者の証言や手記を公開する手法にも関わらず、そんな思いにさせるものがたくさん溢れている作品です。

ミステリーに「謎の解かれる爽快感」やら「勧善懲悪の気持ちよさ」を求めているならお勧めしません。
「人殺し小説」として、不快感を積極的に楽しめる方にだけお勧めします。





 社会派ミステリー、再び。 ――動機探しの痛々しさ

□1 そつのない“王道”ミステリー


 「ある町で起こった小学児童殺害事件。
加害児童は事件の3日後、自らの犯行を認めた遺書を傍らに服毒自殺を遂げており、それ以来事件には幕が下ろされていたが、彼の動機ははっきりとは分かっていなかった。
 30年を経、ある人物が当時の事件関係者を訪ね歩き、証言を集め始める――。」


関係者の証言での構成、毒殺に用いられるのは砒素、捜査の目的は「動機探し」、そして度重なる「どんでん返し」。
多少ミステリーが好きな人間ならだれでもなじみを持つだろう要素で構成された、ミステリーらしいミステリー。
つまりは、新鮮味のない“王道”ミステリー、と言ってしまえるのが、この『毒殺魔の教室』です。

ミステリーとしてソツはありませんが、かと言って取り立てて褒めるべきところもありません。
「意外な動機」「驚愕の真相」と出版社が謳う部分が明らかになっていく過程においても、特に関係者証言による構成が上手く効いているという印象もありませんし、どちらかと言えばそこら辺も強引かもしれません。

デビュー作としては完成度が高い。
でも、よくある類のミステリー。

減点法での採点方式なら、大賞になったかもしれない作品。
解題かなんかでそんなふうに書かれてましたが、まさしく、ミステリーとしてはそんな感じ。
言い得て妙です。




□2 
ホワイダニットの向こう側


でも、「ミステリーとしては」なんて分かったような口を聞いてしまった私ですが、
「じゃあミステリーってそもそも何なのよ」とか言われたらよく分かりません。

第一、ミステリーって言ってもいろいろあります。
いや、理論的な話とかね、そんなの分かんないんでざっくり行きますけど。
でもたいてい、ミステリーって言ったら、「最後に暴かれる驚愕の真実!!!」とかが目玉になる訳でしょう。
その、最後に明かす「真実」ってのをどこに持ってくるかって辺りでも、大まかにジャンル分けできるとは思うんですが…ほら、密室トリック物、とか犯人当て、とか?
フーダニット(=Who(had)DoneIt)とかハウダニット(=How(had)DoneIt)って言われたりする部分ですかね。

そういう言い方を借りるならば、『毒殺魔の教室』で焦点になるのは、純然たるホワイダニット(=Why(had)DoneIt)。横文字なんかでかっこつけずに言えば、犯行動機、ってことですかね。
事件直後ではなくて、30年後、という敢えての設定で物語は始まる訳ですから。

実行犯の名前(Who)、犯行方法(How)、そういうものがとっくに明らかになっている30年後。
あるいは、もし他に何かが明らかになったところで、法律の届かないところに消化されてしまう30年後。

そんな設定の中、徹底的に追及されるのは、やはり何をおいても自殺した加害児童、三ツ矢の犯行動機。
彼がどうしてそんなことを?そしてなぜ自ら命を絶ったのか?

今回、実感として得たのですが、このホワイダニットにページを割くと、悪者のはずの殺人犯に、(必要以上に)人間味とか作者の同情感とかが付加されちゃって、どうしてもこう、すっきりしない感じになっちゃいますよね。
『毒殺魔の教室』なんて、ミステリーとして想定されるだろうほかの様々な“謎”をほとんど排除して、ホワイダニットの部分にだけ焦点があてられるもんだから、本来忌み遠ざけてしまうはずの殺人犯が読者の前に押し出され、他の登場人物よりも人間的な厚みを持って感じられてしまうという現象は、少なからず起こっております。

「謎が解けてよかったー!」「犯人つかまってよかったー!」っていう爽快感がなくて、「なんか…人生って哀しい…生きるって哀しい…」みたいになっちゃう気が。犯人にどこか感情移入してしまう余り。

一般的に(というかwikipediaという素晴らしく情報の水準の高いサイトで見た限りは)、推理小説って「フーダニット(犯人当て)→ハウダニット(犯行方法解明)→ホワイダニット(動機推理)」、というように発展してきた、と言われてるんですが、それは果たして“発展”だったのか、という。
推理小説、というジャンルが、もし本当にそのように移り変わってきているのだとすれば、それはジャンルとして自壊の途を辿って来てしまったということになるんではないかな、なんてセンチメンタルに思ったりしました。

まぁくだらないセンチメンタリスムはどうでもいいんですが(そして胸糞悪いような小説は好きだ)、
ホワイダニットの部分を掘り下げた小説の代表として社会派ミステリーという流派が存在するんだそうで(これもソースはwikipedia)、学級崩壊やら学歴格差やらコドモのモンスター化?なんかそういうことにスポットライト当てっぱなしの本作も、やっぱり社会派ミステリーと言えるのかもしれない。

いや、もうこれは社会派ミステリーど真ん中なんじゃないか??
往年の松本清張なんかと較べても遜色ないんじゃないのこれは(何かと揶揄的な意味も込めて)。




□3
 新しい教室像、不快な子どもたち


なんにしろ、加害児童(三ツ矢)がフューチャーされているっていうのが、『毒殺魔の教室』の気持ち悪さ、不快さの主たる原因だと思われるのですが、それは読者が犯人に同情的になってしまうから、というのと、それから、三ツ矢がフューチャーされることで相対的にそれ以外の子どもたちが不快な得体の知れない存在として読者に印象を残してしまうから…というのも大きいのではないでしょうか。

次々に本の中に現れては消えていくかつての同級生たちが、30年前の勘違いだらけでねじくれた人間関係を、矛盾し合ったり批判し合ったりしながら自分勝手に語っていく様って、なんとも無様で醜くて、ほんとうに苛々させられます。
むなしい。

一応時間を経て、大人になってから昔の状況を語る、という設定ではあるんですが、その割に語られる当時の状況は赤裸々で年月の流れを感じさせない。
「リアリティがない」とか言っちゃあオシマイですが、それって作者が「大人/子ども」の境界線を限りなく排除して考えている結果だとも受け取れるのだろうか、とも考えました。


私自身はそれほど本を読む方ではないので、ぼんやりした話になっちゃうんですが、
子どもを小説内に登場させる時って、その登場パターンには限りがあるんじゃないかって思うんですね。

1) やがてこれから大人になっていく、という、幼い、未発達な、不完全な人間としてのイメージを司る存在。
2) 大人になると「失ってしまう」、神聖な、神々しさを持った、(宗教的な意味をある程度孕む)特殊な存在。
3) 大人には想像もつかない程、邪悪で残酷な存在。

大体この三つじゃないかなと。
1)ってのは大方のイメージと適合するのかなぁ…。2)、3)なんかは性善説、性悪説に通じるところがあるのかしらん。
「子どもは神と対話できる」とか「20歳過ぎたら幽霊が見えなくなる」とか言う言い伝えは、2)のイメージで…蟻の脚とかむしっちゃったりするようなイメージが3)、と。

いや、とくにこの辺には責任持てませんけど…
近世?で?「子ども」段階の?発見?とか、なんかそういう文学的なこと(社会学的なこと?)引っぱり出したりとかそんなんできないんでぼんやり捉えてほしいんですけど…

とにかく私が言いたいのはですね、子どもって、とかく大人とは切り離された存在として考えられがちですよね、ってことです。
いやぁそりゃデカさ体力も違うし発達段階とかあるしね、大人と子どもが切り離されて特別に考えられるようになった歴史の流れってのは至極妥当だと思う訳なんですが、
でもどっかで区切りがある訳じゃなく、その“成長”って子どもと大人の間は連続したものでしょ。
どっかでぶつっと途切れる訳じゃない。
少なくとも、成人儀礼もなくなってしまった(形骸化してしまった)日本という国においては。
なのに、無批判に特別視され、手を掛けなければいけないと考えられている「幼少期」。

それに対してこの『毒殺魔の教室』で描かれてる、大人/子どもの境界って、革新的に連続的に捉えられてると考えられるんじゃないか…なんて思ったり
当たり前に変わるはずのないもの、として、子ども→大人の段階が捉えられているんじゃないかなぁと。

子ども“だからこそ”、悪い、とかじゃなくて、大人と“同様に”悪い存在、というかね…
どう言ったところで私自身に偏見があるので上手く言えませんが…
特別扱いされない、一個の“社会”としての教室、とか、“成長”することもなく特別善でも悪でもない一人の人間としての子ども、とか、そういう新しい子ども像がここにあるのかな、と考えたりしました。

ちっちゃい頃だって、そんな今と変わんねーよな、結局おんなじ人間だもんな、くらいの感覚。

最後の方に妙に視点人物に成り上がってきそうになる副学級委員長も、意外な形で対峙するクラスのマドンナも、全部昔と変わらないことが前提だし、そこを起点に推理が成立していってしまうし。

傍(ハタ)から見たら、年月を経たら成長するもの、変わっていくもの、なんだろうけど、当事者からしたら自分の変化の実感なんてそうそう得られるものじゃないしね。
“子ども/大人”の境界線だって、当事者が超えると実感するものじゃなくて傍から勝手に線引きするものだし。

そういう勝手な線引きをしないで、ただ“生き延びた”人たちの語りというか、なんかそんな感じです、『毒殺魔の教室』。


いや、毒殺事件をアミニズム的なものとして捉えたのかな。
だからその後はすべて連続的なのか?
なんか分かんなくなってきた。

まぁ詰まるところそれだけ不自然に子どもたちが“大人びて”語られたり、
時間経過に伴う変化があまりにも想定から除外されていたりする、ってことを言ってみただけなんですけどね。




□4 いけすかない「エピローグ」


前半部、何やら心理サスペンス的に読者を高揚させる展開になっているにも関わらず、後半突然ヒューマンドラマ的な色が強くなってくるのが本書の特徴です。
お涙頂戴的な?

正直私は、副学級委員長・蓬田美和がしゃしゃり出てきた辺りから辟易し始めましたよ。
「なになに?結局そういう話?ありがちなとこに落とし込む気?」みたいな。

「みんなつらかったんだよね」「私たちも、結局みんな、あの事件の加害者であり被害者だったのかもしれないね」、みたいな展開。
ちょっと待ってくれよ、と。

大学生も先生も勝手に知らないとこで消えちゃってるし。
なんなんだこれは、と。


そして最後までそんな感じで締めくくり、「…なんじゃこりゃ」となっているとこで突如挿入されるのが、最終章の「エピローグ」な訳です。

これ、かなり唐突ですよね。
三ツ矢と思しき児童が“幽霊”となり、おそらく副学級委員長であろうと思われる児童と対話をする場面です。
幽霊は、自分が死んでしまったのは副委員長のせいではなく、責任を感じる必要はない、というようなことを告げ、ただ自分の死は仲良くしてくれた副委員長への恩返しのためであったのだ、と続ける訳です。

へぇ、そうだったんだー
利用されて死んじゃった三ツ矢も、最後に裏切った副委員長のこと、恨んでたわけじゃなかったってさー
よかったじゃーーーん
みたいな投げやりな気持ちになってくるところで(私って特別性格悪いですか)、エピローグはさらに続きます。

 ――気にするなよ。僕たちは友達じゃないか
 その言葉に、ふと妙な気持になった。だから訊いた。
 ――アキオ(=三ツ矢・引用者注)……。きみは本当にアキオなのか?
 ――僕はアキオじゃない。アキオの幽霊さ。
 ――でも、それなら、アキオなんだろう?
 一瞬の間があった。
 ――違う。まさか、キミは霊魂というものが本当にあって、人が死んだら体から霊魂が抜け出し、それが幽霊になるなんてことを、本気で信じているわけじゃないだろうね。

 (中略)

 ――そうだよ。僕はキミの頭の中にいる。僕はアキオじゃない。アキオの幽霊だ。君が自分の頭の中に作り出したね。僕はキミと一緒にいるよ。これからもずっと。……(後略)」

この対話で意味されているものって、死者の真意なんか今後分かることなどない、ってことだと思うんですよね。
「キミのせいじゃない」と責任を感じて慄く関係者に語りかけるのは、結局生き残った本人が頭の中で勝手に構築した“アキオの幽霊”という存在、自分に都合のいいストーリーでしかない、ということがここで露骨に提示されているんじゃないかな、と。

ちょっとぞっとさせられます。

さらに気持ち悪いのは、これを書いたのが副学級委員長・蓬田自身であるということと、そしてこれが、彼女が捜査を始める前にすでに発表されていた原稿である、ということに気づいたときです。

最後、我々読者が(おそらく時折首をひねりながらも)納得させられた蓬田の“推理”は、真実なんかじゃなく、結局彼女自身の慰めのために作られたストーリーに過ぎなかったのでは?
いや、恐らくきっとそうに違いないんだろうなぁ。


殺人事件の捜査なんて、推理なんて、結局は生きてる人間の慰めでしかない訳です。
死人に口なし。
いや、口もなければ恐らく感情だってないのです。
「無念」なんて言ったって、結局は生きている人間が勝手に想像するものでしかない訳ですから。

それなら、誰も罰さず、とりあえず誰もが納得して、救いを与えられるストーリーを勝手に想像するのがいちばん効率いいんじゃないの?


ということで、『毒殺魔の教室』は、『このミステリーがすごい!』大賞に応募しておきながら、実は「真実」を手放してしまった恐ろしい作品なのです。


――生きている者への鎮魂歌、『毒殺魔の教室』。

どうですかこれ。
いや、断じてふざけてなんかいませんよ。

こういうやり方とか主張が、目新しいものであるとはもちろん言えない訳ですが…
これだけの肩の力の抜け具合でさらっと読ませてしまうところは、すごくすてきなんじゃないでしょうか。



●●●○○


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