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臓器移植を「幸福の王子」の童話と重ねたところ、モチーフとして非常にスマートで、社会に対する問題提起も明確にされていて、ドラマ化なんかに向いてるんじゃないかと思ったりします。
そうですね、2時間×2日(週またぎ)で行っちゃいましょうかドラマ・スペシャル的なアレで。

登場人物も恐らくきれい目で揃えて無理ないですし、“白髪のライダー”なんてジャニーズとか戦隊もの上がりにうってつけじゃないですか。
ケンカあり恋愛あり学生時代の回想シーンありカーチェイスあり。
臓器移植法も最近改正されたばかりだし、そこの関心からもPR打ってね。

やりましょう!やっちゃいましょう!





私個人としては、あんまり好きじゃない類のものでした。
泣けない!狙いが見え透いてて泣けない!
「声を上げて泣きました」と書店のPOPにあったのを見かけたりもしたんですが……

最近の若い子って、こういう激烈な内容好きよね。
愛とか暴力とか自己犠牲とか。
携帯小説からもうワンステップ踏み出して活字読みたい!って方におすすめです、とか反感買いそうなこと言ってみる。
わはは。

で、そんなこと言う私が想像していたのは、
「脳死状態の葉月には意識があり、満月の夜だけ機械を通して会話できる」というのが実はまるまる嘘であり、主人公は、彼女の遺産と臓器の代金を狙った悪徳医師に騙されていただけだった…!!
騙されていたという事実、殺人に関与した事実と、仕事の途中で目の当たりにした多くの救われた命の尊さの間で揺れ動く主人公、その時彼は…?
っていう結末でした。
笑うがいいさァ。


ということで今日はこの本になんやかんや意見するのはやめにしまして、
趣向を変えて、「臓器移植法改正」について考えてみましょう。


 臓器移植法“A案”可決

――民主主義が想定する「個人」 対 「一個人」、そして私たちがすべきこと


臓器摘出可能年齢制限の撤廃、本人の意思表示がなくても家族の承諾びより臓器摘出を可能とすることを求めた“A案”が、7月13日の本会議で可決され成立した。
脳死を「人の死」として認めるか、子どもの臓器提供は倫理的に許されていいものか、というのが法改正に際しての主な争点であった。
それは根本的に、生命という、宗教や観念に関わる最もパーソナルな部分を対象にした問題であり、最も社会的な了解を取り付けにくい問題である。
それでも法や国家はそれを無視することなどもちろんできない。
つまりその辺、個人に密接に関わる問題というのは、そもそも公的に定める側の姿勢としてはパラドックスを抱えたものとならざるを得ないと言うことができる。

おそらくその原因により、この法改正に関わる一連の議論は、答えの出ない問題を突っつきまわすかのような様相を呈することとなった訳だが、そういった紆余曲折を経た“A案”への終着は、私たちにある事実を提示していた。
その事実とは、抽象化して言えば、“民主主義が想定する「個人」”と“一個人”は異なる、ということである。

生身の私たちは、脳死の身内を「死んでいる」とすぐに認めることにためらいを覚えるし、自分や自分の子供の死後に、その亡骸を切り分けられること自体を積極的に望むことはない。
しかし今回の法改正に伴って、日本という社会では、人は脳の死に伴って死に、そして死後は他者の判断によって臓器を譲渡しうる存在として想定されることとなったのである。
国が想定する人間は、生身の人間からかけ離れているのだ。

しかしその相違を一概に批判するのは妥当ではない。
私、という生身の一個人と、国が想定する「個人」とがかけ離れているのは、恐らく民意を無視した結果、というのではないからである。
日本という民主主義が想定した「個人」とは、ひとりひとりからなる集団のおおよその平均、という、実在しない仮想個人だからである。

つまり、“A案”の可決は、価値観を一本化することなどできない民主主義国家が、それぞれの相違を認め、(“良識的”な範囲での)最大公約数をもってそれぞれの自由を保障しようとした結果と言えるのだ。
それは民主主義のあり方であり、否定などできない。
否定するなら、つまり価値の一本化(自分個人の価値観に引き寄せること)を求めるなら、よき国を見繕って亡命するなり立国するなりクーデターでも起こすなり、そこは個人で対応せねばならない範疇である。

ただその一方で、この決定に対して違和感を持つ生身の個人は少なからずいる、ということはやはり確かであり、そして同様に“最大公約数”とか“平均”という可変的・流動的なものを想定している以上、政治や法それ自体が可変的・流動的なものでなければならない、ということもまた確かなことだ。

私たちがなすべきなのは、国や法の決定を盲信することではなく、個人として焼け石に水の批判を繰り返すことでもなく、“平均”や“最大公約数”が移り変わりうるものだということを中枢に知らしめうるレベルでの活動である。
政治や法を、あるべき流動的な状態に保つことで、私たちの自由は正しく確保されるのだ。

対抗すべきは、「そう認識されている」私たちという集団の“平均値”なのだ。

「国は私たちの事を考えていない」「国民の声が届いていない」
そう嘆くだけなら、それはひとりごとであり愚痴でしかない。
自分の考えを声に出して、平均値の誤りを、少しずつ正して行こうじゃないか。




――――――

なんか恐ろしいような話になっちゃいましたが…
単純にテレビの街頭インタビューに答える人が非建設的で他力本願な意見ばっかりでいらいらしました、ってだけのことなんですよ実際ね。



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