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ただひとつの空虚な真実に、推理という花を皆がたむける試み。
犬死にを、有意味な死に飾り立てるための、
無機質な事実から目をそむけ、より相応しい「真実」を探す決意。

冒頭のヴァレリイの詩は、そういうことだ。


――――――――――――


 『虚無」へ捧ぐる供物にと
  美酒をすこし 海にながしぬ
  いと少しを


ーーーーーーーーーーーー







コメント:「人間が書けてるか」のはなし。

ミステリーっていうジャンル批判に限らず、
作品を評価するときによく聞く単語に、

「人間が描けてない」

っていうやつがある。


個人的には「いつの時代の話だよ」とか思ってたんだけど、
最近の飲み会で、「最近の作家は人間が書けてない」って批判する文学研究者に会ってしまったもんで、
なんとなく「人間が書けてる」「書けてない」について、今面白くなく思っている。


米沢穂信って人は期待の売れっ子作家で、
『向日葵の咲かない夏』とかの道尾秀介って作家さんと並んで、
「ポスト東野圭吾」とか言われてるらしい。

東野圭吾にもそう言えば『容疑者Xの献身』が文学作品的な評価をされかけたのにつけて
「人間が書ける書けない」の議論が付きまとってた気がするけど、
そう考えると、未だに「人間が書けるか」ってのは大きな問題なのかもしれない。

この米沢穂信も、多聞に漏れずそういう作家で、
『ボトルネック』評価にも「「若さ」の影を描き切る」とか、そういう類の言葉が目立つ。

そうだとしたら、何?

人間が書けたら/書けなかったら、なんだっていうの?



社会派ミステリーにしろ「文学」作品にしろ、
社会の暗部をえぐりだす、人間の心を活写する、……いったいそのどこに、魅力があるのか分からない。

「あぁ、なんか分かるな」って登場人物と自分を重ねられたら、確かにその作品はその人にとって特別になるだろう。
自分が虐げられてる状況が作品の中に投影できたら、そこである種のカタルシスは得られるのかもしれないし。


だけどそれが「社会」とか「人間」とかに 普遍化 される必要がどこにあるのか分からない。

それに、社会とか人間を書き切りました、みたいに押しつけがましくされても、「知らねーよ」って話で。


まぁ、できるだけ多くの共感を得ないと出版業界も成り立たない訳で、
そういう商業的な観点から「より広い、普遍的な人間に当てはまる人物を描け!」って言うのなら分かんないでもないんだけど。




そんなこんなな感慨を抱きつつ「若さ」っていうつらさを描き切ったとの評価が高い『ボトルネック』を読んだのですが、
「プロが認めたこの実力」!(文庫版帯より)
はちょっと実感できないまま、
あ、でも「若さ」の影には反吐が出るほど実感しながら、
一つ痛切に思ったのは、

「おしゃれ」を描写したいときには、服のことあんまり書かない方がいいよなぁ、ってことでした。


なんか、詳しく色とか形とか書かれても、私の想像力の乏しさなのか、
「その組み合わせ……センスあるか?」ってことが多々ある。

公平性を期すために本文から服の描写部分を抜粋しますが、

「腰に手を当てたサキは、昨日の部屋着とは打って変わって洒落た服で着飾っていた。
 ロングTシャツの上にしわ寄せ加工したキャミソールを重ね着し、さらに白いファーベストを羽織って、下は黒いフレアジーンズをはいている。胸元にフェザーネックレス。鈍く輝いて視線を惹きつける。」
「ペイズリ―柄のチュニックにスウェットを羽織って、エメラルドグリーンのマフラーを巻いていた。」
「黒のタートルネックセーターにベージュのジャケット、白いビーズで飾られたデニムパンツ。」
 云々。

……なんか、こうして見ると米澤さん「羽織りもの」好きだね!ってのは置いといて(舞台設定も冬だしね)

ここに抜いてるのは全部おしゃれさんの描写なんだけど、
「え―――…、これ、おしゃれ…か?」って、思うんですよ私は。


センスなんて個人個人で違うもんだしね、
あんまり細かく細かく書かないで、読み手の想像力に委ねる必要があると思う。

「おしゃれ」描写に関しては、件の東野圭吾とか森博嗣辺りもやらかしてる気がする。

なんか、質感とか、色合い、雰囲気、程度にとどめた方がいいよねたぶんね。
最初のサキの描写にしてもさ、
まぁ「洒落た服で着飾っていた」って言っちゃう文章の野暮ったさはいかんともしがたいけど、
上から下まで全部書くんじゃなくて、
「ファーベストの白さ」が似合っている、ってことを描くなり、
「目を引くフェザーネックレス」がなんで目を引くのか描くなり、
こう、ポイント絞るとかね。分からんけど。

江國香織とかその辺ふわふわ曖昧にしといてしておしゃれっぽくまとめる印象あるけど
今度注意して読んでみよう。「おしゃれ」描写。


ってことで、『ボトルネック』でいちばんつよく印象に残ったのはそこでした。


主人公がくだらな過ぎてやるせないです。
ほんと「若さ」の影。くっだらない意味で。リアルでした。
これが「人間」描いてるってことなのかしらん。

ただ、いっちばん最後は読んで「にやっ」ってしちゃった。
「えーーー!どっちなのーーー!?どうなるのーーー!?」的なとこでバツッと話は終わるんですが、

「あ、これで大丈夫じゃん」って。

わかるなー、「ぼく」!
そのへんは、個人的にはやられたな。

ぼく = 私 、でした。



コメント:いままででいちばんおもしろかったドラマ。

堂本剛・ともさかりえの「金田一少年の事件簿」のあと、
仲間由紀恵・安部寛の「TRICK」の前、に、堤幸彦が手掛けたドラマであります。

どこか抜けてる探偵役×しっかりもののワトソン役 のコラボレーションは、
もちろん堤幸彦が始めたものなんかじゃなく、古より伝わる伝統的推理物の技法ですが、
中谷美紀×渡部篤郎によるコントラストの妙味!!

間違いなく他に類を見ない素晴らしさ。


殺人のトリックはすぐ見破るのに、犯人を悪人と見なし切れない中谷扮する柴田と、
トリックをそもそも解こうとすらしないのに、犯人の醜い精神に敏感な渡部扮する真山。

犯人に徹底的に感情移入しないことで、
犯罪とか犯人の狂気が、観る者に焼きつけられていく気がします。

だからこそ、堤さん手掛ける作品の中でも、「ケイゾク」が群を抜いて陰鬱で後味悪くて恐いんだろうな。



誰もかれもが言ってますが、真山(渡部篤郎)がほんとうにすてき。

飾らない―だらしない
熱血―狂気
クール―冷酷

そのあやふやな境目でふわふわ捉えどころがない所に、なぜかとてつもない魅力が生まれているのです。

真山ってゲイリー・オールドマンだ!っていうのは、
ドラマ最終話収録のDVDについてた映像特典で、堤幸彦と対談してたプロデューサーが指摘してましたが、
堤さんは「えー?そう?」みたいな反応でした。

「ゲイリー・オールドマンっていうかさ、
 ああいう、かっこいいかっこよくないの境界っていうかさ、
 かっこつけない、自然体なところからくるかっこよさ?
 ぎりぎりの。
 ああいうのが、もともと男がみんな憧れるかっこよさなんじゃないかなぁ
 真山は、そういう感じだよ」

っていうようなこと言ってた気がする。
理屈はよく分かんないけど、
なんかこう、本能では理解できます。

真山、ほんとうにすてき。



真山が柴田(中谷美紀)に対して取る態度も、常に境界の上にあって、
だから二人のかけ合いがほんとに魅力的なんです。

「そんなひどいこと言うなんて!」とか
「ほんとは仲いいんでしょ」とか
「好きなんじゃねーの?」とか
そういうのがどれも合ってて、でもどれも正解じゃない、みたいな。


ああいうふうに、「ばーか」って言ってくれる人がそばにいたら、がむしゃらに頑張れる気がするなぁ、
と、ぼんやり思った午前5時でした。

昨日の夜から、1―11話、ぶっ通しで完全制覇です。
ヤッテシマッター




コメント:らせん【厳密に言えば別にネタバレじゃない】


レポート進まない、そんな夜
「らせん」をみてみる。

懐かしい。
昔みたのとは印象がまったく違う。

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ロメール先生、ご逝去なされたそうですね。
きっと世界中のひとりひとりがご冥福をお祈りしているのかと思うと、ふしぎでうらやましくもあります。
ロメールを大学院で研究していた先輩は、何を思っているのかな。

今日は雪です。

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コメント:「ふたつの唇」(笑)。

……なんかもう 歌詞から連想するのが風俗店の情景しかないんですが。
ピンサロとかソープとか行った状況をオブラートに包みつつそれっぽく仕上げてみました、的な?




君との時間だけが本当の自分

服を脱ぎ捨てたのは心
ふたつの唇さえあれば十分
言葉じゃない方法で話そう

(中略)

抱きしめる強さで想いをはかれたら
きっとふたりは恋人以上なのに
迷路のような街 めぐり会えた奇跡
声に出さず ふたりで叫ぼう


    :
    :



月9主題歌とかCMとか…
小栗さんもTAKAHIROも、もはや男性器にしか見えません。
ひゃっほう



    :
    :

夜の帳につつまれ 手さぐりで交わす愛
まぶたを撫でて魔法をかけるよ

僕の熱いものは君に届いてるかい?

そっと口づけて灯そう Fire



イメージ映像としては
ふたつの唇

とかなんだけど
タイトル的には


こっちのほうが合うか?





・・・・・・もう、「ふたつの唇」て!
そういうことか!っていう


堪忍して!





(2009-09-16)
コメント:観客が見出して安心したい、正義とか善とかいう「絶対的価値」の勝利。グラン・トリノという車は、その観客の欲望をこそ、象徴しているのだ!


家族愛、国家、民族への誇り(ナショナリズム)、倫理、道徳、神、生命の尊さ・・・・・・

あらゆる「神話」が疑われ、そして失墜していったのは、きっと第二次世界大戦後だ。


親ってだいじにしなきゃいけないもん?
どうして人を殺しちゃいけないの?
国ってなに?
なんで出来の悪いやつを差別しちゃいけないんだよ。
神様なんていねーよ。
・・・・・・
・・・


いろんな疑問が浮かんで、
でも他人に与えられる答えはいつだって少し納得がいかなくて、
「ほんとに?」「なんか都合よくない?」なんて疑いながら、でもなんとなくみんなと歩調を合わせて生きてきてみた。

よくわかんないけど守んなきゃいけない「法律」、とか
読まなきゃいけない「空気」、とか

自分の外側に左右されながら、でも同調しきれないようななんとなくの「違和感」ってところで外とは区別されて保たれてる危うい「私」っていう存在。



・・・・・・程度に差こそあれ、戦争から遠ざかるにつれ、だんだん、それぞれの存在って価値が失われて感じられるようになって来てると思う。

戦争、っていうのは、もちろん忌むべき歴史ではあるのだろうけれども
戦争を知らない私は、「同じ気持ち・同じ価値観なんてつながりを他人と持ち得ない」ってみんなが思ってるような、みんなばらばらの雰囲気の中に今いて、
「絶対的価値」ってやつを「みんな」と「共有」できた、その戦時中という気分に、憧れみたいな気持ちを抱くことがある。



――――――――――――

『グラン・トリノ』に出てくるおじいさんは、恐らく、戦後から今まで、あらゆる「神話」が崩壊するその様を体験してきた人物なんだと思う。
「頑固」、「偏屈」って言われるけど、頭が固いとか古いっていうよりは、「社会」の風潮に左右されず、自分の価値観に忠実に生きる、リベラルな存在と言える。

ハナから差別してかかってたモン族の人と交流し始めるのは、
ご飯がおいしかったり女の子が可愛かったり意外と男の子にいろいろ教えるのが楽しかったりしたからで、
「差別なんてよくないな」って“改心”したからじゃない。
だってナンパな黒人には差別用語を惜しまないし、黄色人種の文化もイマイチ理解できてない。

だから、

「周囲との交流を通して互いの違いを理解し合い・・・(うんたらかんたら)・・・心温まる・・・(どうたらこうたら)・・・最後には感動の・・・」

ってよく感想とかレビューとして見るんだけど、
わたしには、結果的な「周囲との交流」だって、結局彼自身のリベラリズムの延長(個人的な「いいと思うかんじ」だけの選択)の延長にしか思えない。

違いを理解するんなら、ああいうラストにはならないでしょう?



おじいさんが肯定して受け入れたものと、否定したものと、その線引きってどこにあるんだろう?

きっとおじいさんは、法とか宗教とか道徳とかに関係なく、自分自身の価値観でもってああしたんだと思うんだよね。
「おれ」を貫いたんだと思うんだよ。

だっていくら悪いことしたとは言え、「社会」的には前途ある若者を否定しちゃいかんでしょ

結局おじいさんのしたことって、「リベラリズム」とか「個人主義」とか呼ばれるようなことの範疇なのさ。



なのに観客はこれを観て「共感して泣いちゃう」という、この “気持ち悪さ” 。



それって、
戦後を通して失墜してきたはずの、そして主人公のおじいさん自身が持ち合わせずにいたはずの、
生命の尊さとか正義とか相互理解とか、そういう「絶対的価値」っていう「神話」を、
私たち観客は勝手に彼のすがたに重ねて作り上げてしまっている、ってことだと思うんだよね。


「価値観なんて人それぞれじゃん」とか言って、自由を掲げて、
でも、結局「絶対的価値」を人と共有したい、人とつながってたい、って部分を捨てきれないでいる私たちの矛盾。
『グラン・トリノ』は、そんなものが浮き彫りにされる映画だったな、と、私は思います。


フォード社製、72年型のグラン・トリノは、崩壊した「絶対的価値」、「神話」というものの象徴なのであり。
そしてそれでもなお、映画の中で愛され、乗り継がれるその姿は、
私たちがそのからっぽの「神話」を、まだよりどころにし、手放せないのだということをも雄弁に語っているのであります。






コメント:とんでいくコブクロ

コブクロの歌詞が変わった。

コブクロって言ったら、なんか好きになれない女と恋愛経験不足をひたすら嘆くだらしない男が出てくる、矮小な恋愛風景!のイメージなんですが。
最近なんか妙にアンセム。

どうしたのコブクロ。なんかあったのかいコブクロ。


実際のアーティストとしての、地位っつか規模っつか……デカさは置いといて、
「わたしのなかのコブクロ」だったものが、「みんなのコブクロ」に羽化していく感じなんでしょうか。
なんか一抹の切なさを覚えたり覚えなかったり。

それとも何も変わってないの?

どうなのコブクロ?






映画「ノルウェイの森」の監督トラン・アン・ユンの劇場最新作。
音楽はレディオヘッド。
すばらしいコラボレーションでした。
レディオヘッドはきっと映画音楽に向いているに違いない。

信仰や正義や美、という、「良い」ものは、狂気という「悪」に支えられているものなんだと、この映画を観て改めて認識しました。
それは、表裏一体、という意味でも、狂気という逸脱が新たな「良さ」という概念を生み出しうるという意味でも。

あ、ジョシュ・ハートネットが演じる刑事の名前がクラインなのは、「クラインの壺」と関係あるのかな
マフィアのス・ドンポ(イ・ビョンホン)という「悪」と、他人の痛みを身代わりとなって引き受けられる特殊能力を持つシタオ(木村拓哉)という「善」を、表裏一体のものとしてつなぐ役割……みたいな
どうなんでしょう。

「それぞれに痛みを抱えた男たちが、美しく、そして激しく傷つけあう」、「誰も想像しえなかった結末」…
確かにそこに偽りはありませんが、単なる「サスペンス」以上の感慨を観客に提供してくれる作品だと思います。

基本的にはシタオの設定からしてファンタジーものです。
そして(少なくとも一回見た限りでは)、そういった設定も非常に曖昧というか釈然としない部分が多く見られます。
なんで?え?マジで?論理的じゃなくねぇ?みたいな疑問をはさみはじめるとキリがないっつーか。
例えば、筋とかバラさない範囲で言っちゃえば、「もう死ぬ!」っていう怪我を負った人間の「痛み」を引き受けたシタオが、血だらけになりつつなぜ生きてられるのか、とか。傷自体引き受けて出血までしてるならなんで彼は死に至らないのか?みたいなところ。しかも、やたら回復早いし。
まぁ、これは……いやーでも……

まぁ見てくれ!途中では気になってくるよ絶対!「なんであんたは死なないの」って
これから見られる方は、中盤はそういうのはもう細かく考えないで流れに身を任せるつもりでいてください。
ファンタジーだから!!



もう何を置いても映像美!!!
木村さんとかイさんとかほんと今まで軽んじてましたスイマセン
こんなに美しいなんて知りませんでしたッッ
必見っす。





最後に。
個人的に気になるのは、「青いパパイヤの香り」然り、トラン・アン・ユンの作品に出てくる女の子は大抵バカ、ってこと
監督はフェミニストなんだろうか。女性蔑視者なんだろうか。
なんか…女に甘いよね。甘いっつーと語弊あるけど…

さて、「ノルウェイの森」の女性陣たちは、どのように描かれるのでしょうか。
たいへん楽しみであります!

そして松山ケンイチ!
(わーーーーい)




かたよりはありますが非常に面白く、そして参考になります。
あのドゥルーズがこんなにキャッチーに!つって。
院のゼミ発表の際には(こっそり)お世話になりました。

廣瀬さんがこの本のなかで邦訳してくれてるシネマのほうが、法政大学出版局から出てるのより分かりやすいです。
全文訳してくれ廣瀬さん!

シネマの1の最後らへんと2の最初のあたりに興味がある人に。



ところで。
ドゥルーズってほんとはおしゃれでちゃめっけのある人なんじゃなかろうか。
一般に流布する邦訳が小難しいので、日本語専門の私には分からんのですが、なんとなくそんなにおいを感じています。